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「国家の品格」なぜ人を殺してはいけないのか [読書・書評]

本書のテーマに近いところについて2つほど。

■なぜ人を殺してはいけないのか

「国家の品格」の中に「論理の端緒は情緒である」というメッセージがある。

この説にはまたもや大筋アグリーである。「論理の出発点が、情緒的欲求にある」というのはうなずける話だ。自分の情緒を満たすために、正当性を証明するために、論理を紡ぐ。
思考というのは、純粋にアカデミックなこと以外は、「目的」がある。「目的」は欲求に根ざしていることが多い。この欲求の部分を「情緒」と言い換えるならばまったく妥当だ。

さて、ところが、その話を逆説的に説明するにあたって、
「論理というものはその情緒的端緒の部分を説明できない。たとえば、『人はなぜ人を殺してはいけないのか』に対して合理的な説明が無い。これは、人が人を殺してはいけないのは情緒により決まっているからだ」というような主旨の記述がある。

この記述はまあどうでもいいのだけど、例えば自分の子どもに、
「ねえお父さん、なんで人を殺しちゃいけないの?」
と訊かれたときに、

「いや、合理的な説明は無いんだよ」

などと答えるのは甚だカッコ悪いので、今から考えておこう。というか、レトリック上で説明するのは超カンタンだと思う。

「人を殺してはダメ」というのは、「皆でダメだと決めたこと」つまり社会的な合意である。

社会的合意というのは、誰かがやってしまうことで誰かが困るようなことを、困る側の立場に立って防止するために決めるルールである。これは「人殺し」だけではなくて、盗みや強姦、傷害、詐欺やストーカーなど、いわゆる刑法で決められているものに共通する仕組みである。
すなわち、被害者が主体になって作られたルールである、ということ。
目線が「人を殺す」側に立てば、この命題は一見分かりにくいが、「殺される側」から考えると超カンタンな理屈である。

「誰かに殺されたら困る」つまり「生存」を最優先するのは、これは生物の命題である。
これ以上掘り下げる必要のない、定理である。これを「殺されたら困る」自由、と仮に呼ぶと、それは生物の命題に立脚しているため、全ての生物がそれを行使する権利がある。

対して、「人を殺していい自由」というものを考える。
「人を殺していい自由」は生物の命題に立脚していない限り、それを行使する権利はよりどころを持たない。そのため、それを行使する権利は「殺されたら困る自由」に優先しない。

「殺されたら困る自由」 ≧ 「殺していい自由」

しかしながら、生物的命題、例えば「殺して食う=自分が生き延びること」とケースにおいては、「殺されたら困る自由」に匹敵することが考えられる。だから、人間は生き延びるために牛や豚を殺す。

しかしながら、人間は通常人間を食わない。食う必要がない。だから殺してよいことにはならない。

同じように、「殺されたら困る自由」を侵害される場合、つまり「殺されそうなとき」に関してはその限りではない。

つまり、
「誰かに殺されそうになったとき」「誰かを食わないと生きていけない場合」のように、「殺されたら困る自由」が侵害されるケースに該当しなければ、「殺されない自由」が確保されなくてはならない。
上記の原則に則れば、「人を殺してはいけない」と定義づけられる。

※では、例外の場合はどうか?
→今まさにナタでアタマが割られそうな場合。
→ガダルカナル戦線で、地獄のフィリピン戦線で。
→食人族である。
このケースでは「人を殺してはいけない」とは言わないでしょう。

数学的なアプローチで、決着点を無限に細分化していけば、もちろん永遠に結論付けられない命題になってしまうが、一般的な議論のレベルではかように合理的に説明できる。

子どもに訊かれた場合は、こう答えると良いと思う。

「太郎、お前は誰かに殺されたら困ると思うだろう?」
「うん」
「お父さんも、誰かに殺されたら困る。とっても困る。一番困る。そうだよね?」
「うん」
「世界中の人々が、殺されたら一番困るんだ。その『困る』気持ちは、例えば太郎が誰かを殺したい、っていう気持ちよりも、必ず絶対に強いんだ。わかる?」
「うん」
「だから、世界中の人々で話し合いをして、誰かを殺してはいけないというルールを決めた。
そうすれば、誰も殺されて『困る』ということにならないようにね。」
「うん」
「だから太郎も絶対に人を殺してはダメだ。世の中で一番大切なルールの一つだよ」

別に情緒的でもなんでもないな。

「なんで人を殺してはいけないのか」とか言うやつってのは、完全に自分のコトしか考えていないことを証明しているわけだな。バカバカしい(笑)。

■「惻隠の情」と「慈悲」の差はなんだ

これは面白いテーマだと思った。惻隠の情を欧米人に説明すると、キリスト教には「慈悲」の概念があるから分かりやすいって話。その話自体はまあどうでもよいのだけど、実は「惻隠」と「慈悲」は実態としてはゼンゼン違うと思うのだよね。というか、「慈悲」というのは本当は仏教用語のようです。

参考:「惻隠の情」の説明
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo10.htm

cf)「惻隠の心」は、いたましく同情する心ですが、相手の立場に立って、ものごとを感じとるという感覚上の自然の性格の発露でもあります。

とあります。上記サイトでは、その後、博愛の話になってちょっと話がボケます。相手の立場に立って感じることと、博愛はあまり関係がないでしょう。なぜなら、

>キリスト教の中心の部分にも、「神は愛なり」という教条がありますが、われわれ日本人の心のなかには、愛という概念はなかなか捕らえにくく、実生活のなかではその考え方を生かしにくいようです。

「相手の立場にたって感じる」ことと、キリストの教条で規定されている博愛というのはその出自が大きく違うからです。

キリスト教でいうところの「愛」とか「慈悲」というのは1:神が提供するものであり、2:憐憫をたれるということであり、3:献身をもって達成される。

対して、惻隠の情というのは、他人に対して自然発生的に生じるものである。

神の絶対視線ではなくて、他人の視点や感情に自分を重ね合わせるというもの。そして、それは「達成」されるとかされないということではなく、ただそういう視点がある、ということ。これは、キリスト教的なおしつけがましいものではなく、あくまで自然発生的なものであり、表に出るかどうかはそのときどきである。相手の気持ちによるからである。

これは「独善」という概念に照らし合わせても、たいへん興味深い差になる。キリスト教の「愛」は言わば素晴らしいものとして規定されたルールであり、排他的である。これは、自分で勝手に定めた「善」を他人に強要する、つまり「独善」になる危険性をはらんでいる。
それに対して、惻隠の情というのは極めてファジーではあるが、相手の気持ちというものを最優先する。つまり、相手のためになることを目的とすれば、より実効的なのは「惻隠の情」なのではないかと。

ただ、ヨーロッパのように他民族国家・・・つまり遺伝子的利害が対立するような人々に流通させる概念として、惻隠の情は極めて難しい。互いの立場がそもそも理解できないから、相手の立場に立って考えても的がはずれてしまうからだ。

藤原さんの本当に伝えたいメッセージってのは、実は「相手の立場に立ってものを考える」という単一国家特有の思考方法がいかに素晴らしいかということなハズだから、もうちょっとそういう切り口にした方がよかったでしょうね。

さて・・そんな感じで「国家の品格」にかこつけて自分の意見を書いてきました。

賛否両論あって、とくに論理派の方々からは総スカンに近い状態ですが(笑)、決して悪い本ではないと思います。

未読の方は、是非。


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「国家の品格」 英語は学ばなくて良いのか [読書・書評]

さて、話を戻します。

書の中で、いくつか首をかしげるところがあったのが、
「小学校で英語を教えるな」
というところなんです。
もっというと、小学校で・・・というのはまあどうでも良いのだけど、「英語教育」自体、あまり大切でないという論調はどうかと思うのね。筆者が書いている通り「思考は言語」であるというのはアグリーです。思考を定着させるという意味で。

そんな中、もう経験論的に断じてしまうと、「品格」とか「武士道」とかにしっかりとした価値を認識している人というのはほぼ例外なく国際人なんですよね。
まちがいなく・・・英語を達者に操れる類の。
そうでない人はただの右翼思想家(笑)。

これは、藤原さんご本人が、
「もとはアメリカかぶれだったけど、外国に住むようになってから意識が変革されていった」
という冒頭の記述からもうかがえます。
彼自身、英語を使いまくってからようやく彼自身の考えに到達している。

まさに、白人文化に触れていないと、まさしく<情緒>のレベルで「品格」とか「武士道」とかの崇高さに気づかない。

アメリカ西海岸とか、オーストラリアとかで生活していて、その中で自分の繊細さが踏みにじられたりすると、非常に日本的情緒に注目するようになる。
日本の古式ゆかしい文化に対して、欧米の文化人が注目するのも同じ理由です。価値というのは外から見るとよく分かる。

その理由から、英語を学ぶなというのは真に受けないほうがいいかなと思います。

また、別の見地。
英語にしか無い概念、日本語にしかない<概念>というのはそれぞれ沢山あるわけで、そういう意味では、基礎教育に外国語があるってのは脳の発育にはとてもいいと思うのです。

ここからちょっと暴論気味に深堀りします。

日本に住んでいる、日本社会に生きている「頭の良い人」の多くは、多かれ少なかれ周りの愚鈍さに苛立ったり、自己評価に対して不当な扱いを感じていると思います。
というか、そういう人を例として挙げます。

そのアタマの良い人が、身の回りがオカシイ(=愚鈍である、非合理的である、など)のはなぜかと考える。

どう考えても合理的な提案に周りが追随してこないとか、自分の主張を理解してもらえないとか、アホな上司に意味不明の理由でアイディアを棄却されるとか、そういうことを積み重ねたときに、さて、グローバルスタンダード的にはどうかと調べると、大抵の場合は自分と同じベクトルの専門家や学者、成功者や大企業家などを発見することができる。ほらみろ、やっぱり俺の言うことはアメリカの著名な学者が提唱していることと同じだ!と。で、それはだいたいアメリカか、イギリスか、ドイツか、フランスか、カナダか、スイスか、北欧にいる。
そうすると、その人が超突出した天才であることを忘れて、印象的には自分の考えが「欧米でなら受け入れられる」と誤解する。
で、周りの愚鈍なトモダチ連中と、アメリカの天才学者とかを比べて、心象的に欧米崇拝的になっていく。
この心理的メカニズム、シンプルですね。

ところが、海外経験を多少なりともすれば、それが大きな誤りで、全く違う心象を得る。
イギリス人がプライドだけ高くて頑固なアホだ、とか、フランスはフランス人がいなければ最高だ、とか、アメリカの殆どはスラムと農村だ、とか、殆ど呪いみたいなことをいう人も結構いる。

これは、欧米的崇拝があるほど、強い呪いとして帰ってくる。世界に対する失望感を伴うから。

で、振り返って見ると、意外なことに日本人というのは、はっきり物を言わなくても汲み取ってくれるし、相手を必要以上に痛めつけようとしないという美徳を持っている人が多い。立場をわきまえず正しいという理由で攻撃的な論調を展開したりしないし、まあ誰とでも仲良くやれる。金の話ばかりしない。
などなど、確かに繊細さにかけては単一民族独特の進化があって、素晴らしいと感じる。

「国家の品格」の出発点はまさにそこにあると僕には思えるわけですよ。
少々話が極端なのは、その呪いによるものであって。

で、じゃあ日本人だからもういいじゃん、自然体で行こうぜ~イェ~、という話ではなくて、大切なのは、両方知っているということなんだよね。

例えば、日本的に結論をぼかすような会議は合理的ではない。例えばビジネスに関して言えば、市場経済が根本的に破壊されることはおそらくないという前提に立てば、およそ日本的情緒の通用する世界ではないとも思う。
ビジネスの現場において、日本の「推して図るべし」的なコミュニケーション法は危なくてしょうがない。

グローバルスタンダードと、情緒にネガティブに流されない合理性と、日本的繊細さをあわせ持つこと。
これが自己適正化だと考えるわけですね。どれが欠けてもいけない。バランスが肝要。


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「国家の品格」 電波な追随記 [読書・書評]

複数の知人に、ベストセラー「国家の品格」を読めと薦められた。

しかしオレには内心大きな躊躇があった。この本を読むのが怖かったのだ。

なんでかって?

それを端的に説明してしまうと
「コイツ、電波か?」
と友人達にイブカシまれてしまうので、まるで書評みたいに見せかけながら、ゆっくり内なる狂気を暴露していくことにするよ。

「国家の品格」はタイトルが顕すとおり、精神性を軸として国家や社会の在り方を批評したものである。
おおよそ筆者の立場は下記のようなものである。

・近代合理主義はおおざっぱで粗野なポリシーである
アメリカは往々にして悪い、または間違っている。民主主義も間違っている。
・それを正すことができるのは、武士道を中心とする、成熟した精神社会を<持っていた>日本人である。

で、結論から言ってしまうと、この考え方にはほぼ100%同意できる。
※「ほぼ」と言ったのは、細かいサンプルのとり方や例示でアグリーできない部分があるってだけで、主張自体とぶつかるものではない。

さらに筆者は、一段階細かいレイヤーで例えば下記のようなことを言っている。

・論理というものは立脚する立場や出発する前提によって結論が変わったり間違ったりする、非常に危ないものである
・世の中はグレーであり、白黒はっきりしてることはあまり無い
・しかしながら、悪いものは悪い。(そしてこれは論理の問題ではない)
・「自由」というのは幻想である
・「ゆとり教育」はアホらしい
・小学校から英語を習わせたり、アメリカでは小学生に株を教えたりするのは本当にアホらしい
・衆愚政治は最悪である⇒「真のエリートしか国はリードできない」

書の中には明確には書いていないのだけれども、おそらくこのヒトは

・男女雇用均等法をはじめとするウーマンリブ
・ブッシュ大統領
・情報セキュリティ
・ホリエモン

とかも大嫌いだろうと思われる。推測ですが間違いないでしょう。
で、神道・武道・茶道・・・など「~道」が大好き。

ふむふむ、なるほど。

以上を踏まえた上で、今から突然、自分の話を始めます。

一昨年くらいから、人間のアピアランス(見た目)がおよぼす作用について注目し、笑い方やら服装やらを少しずつ調整していた。
だいたい定着してきたかなあという頃、「人は見た目が9割」というベストセラーが出た。

昨年から、そろそろオレもWEB標準化を提言していかねばならんなあ・・・だが、まだ制作会社たちが追いついて来ていないので、
まずは将来の話として講義でもぶつか、と思ったらウェブ進化論」というベストセラーが出版された。

マーフィーの法則のように、悪いところやいいところだけが記憶に残ったりするのは人間の錯覚で、その錯覚のせいで人間は騙されたりするんだよなあ、
と考えていたら、占い師はなぜ信用されるのか」というベストセラーが店頭に並んだ。

何が言いたいかって?まあまあ聞いてよ。

僕はここ10年近くの間、
アメリカ的合理主義がいかに間違っているか、日本人はそれに傾倒してはいけない、という論旨で、クドクドと友人達に(酔って)説教したり、文章にまとめることを試みてきた。

★たまたま残っていた、「電脳的漫画論」掲示板への自分の書き込みを拾い出してみた。
http://blog.so-net.ne.jp/loudminority/2006-06-04-1

これは、10年前に漫画の評論をしていた頃から始まっている、一種の思想の旅路であり、しかしながらこの論旨を多くの人に共感させる手っ取り早い手立てが無く、長いこと悶々としていた。

この一冊、「国家の品格」が出た瞬間に、それを本能的に忌避した理由は至ってシンプル、
「書いてある内容が予想できたから」である。
もっと言うと
「また同じことを考えてる人が本を出して、それがベストセラーになる」
というやるせない感覚を覚える羽目になるのだという予感があったのだ。

一介のサラリーマンである自分がそんなことを言い出すのは、我ながら電波っぽいとは思うのだけど、自分のことを言論人であると思っていたいお年頃としては結構ショックなのである。
しかし、この本を読んだことで、自分に足りなかったいくつかの要素が判明し、多少なりとも納得することができたのは良かったかもしれない。

「アメリカ的合理主義が誤りである」という太い論旨。社会の色々な事象に影響しているため、何か事件が起こる度にブツクサと主張したのだが、
根本的なアイディアの部分は絶対に分かってもらえなかった。
9.11の時も、クローン談義のときも、僕は必ずアメリカン・イデオロギーの批判者としての立場を貫いたつもり。

例えば、比較的最近、こんな記事をブログに掲載している。

「セキュリティーという名の虚無」
http://blog.so-net.ne.jp/loudminority/2005-02-04-1

昨今しきりに取りざたされている「情報セキュリティ」。情報は自分で防衛せよ、とファイアーウォールがどんどん強固になり、ネットワークの利便性が損なわれている。
ここにあるのは、実は
「どろぼうがナイフを持って入って来るかもしれないから、銃を買おう」
と準備するような、浅はかなアメリカ的論理と同じものなのである。
防御するサイドが銃を持っているので、結果として、アメリカではマシンガンを持って強盗するヤツらが増えた。こうなったらもうお手上げである。

これ、どっかで聴いたことあるでしょう。
そう、殆ど同じ話が「国家の品格」に書かれているのです。もちろん、どちらかが盗んだわけではないでしょう。同じように考えていただけです。

さらに最近、ホリエモンの失脚にあたって、こんなことをブログに書いた。

MONSTER~ホリエモン・レビュー~
http://blog.so-net.ne.jp/loudminority/2006-01-23

ポエムの形式で、「シンプルロジック」というものに生きた男の浅はかさを書いている(つもり)。

これ、どこかで聴いたことあるでしょう?そう、「国家の品格」に、同じことが書いてあります。書の中ではデリバティブをネタに、金融ゲームの暴走と、そのゲームで勝てばよいだろうという合理的弱肉強食を批判しています。
これはそのまんまホリエモンの考え方の批判につながるはずです。

さらに、8年くらい前に、こんな恥ずかしい文章を書いている。データや状況認識が粗くて恥ずかしいのだけども、論旨としてはまあ、悪くない。

手塚治虫「ブッダ」と宗教について
http://loudminority.net/comic/private/religion.html

この文章の中盤では、キリスト教と、それを後ろ盾とするアングロサクソン社会がいかに傲慢か、というようなことを書いている。
(それに対して神道の面白さ、はては性善・性悪説から価値観の多様性が単なる状況の違いに過ぎないことを書いているが今回はあまり関係ない)

これも、どっかで聞いたことあるでしょう。同じことが・・・

あと、

で、「国家の品格」1冊読破するまでに、このような目がつぶれるような体験を10回以上することになった。こんな嫌な読書体験もなかなかないだろう。

自分と作者の藤原正彦氏の間には30年以上の歳の差があり、彼は数学者で僕はミュージシャン崩れのWEBディレクター、全く人物像としてかぶるところが無いにも関わらず、よくもまあこんなに似たようなことを考えるものだ、と、シンクロニシティを楽しむことはできた。

さて、では、同じことを考えた人間が何人かいたとして、なぜ藤原氏だけがベストセラー作家となって、他の、例えば僕のような人間は主張を広めることができなかったのだろう・・・と考えると、幾つか決定的な違いがあった。

1:
「論理が万能ではない」という話なのだから、論理的に語る必要はない。藤原氏はそれを分かっていて、あえて論理的に説明しようとしていない。「わたしは素晴らしいと思うのです」だけを繰り返すのみ。僕は同じ論旨を論理的に説明せねばと考えてドツボにはまっていた。

2:
「品格」という言葉がたいへんキャッチーである。また、合理主義・論理崇拝の正誤を、「品格」とか「尊敬」とかの観点で話すのが、そもそも若い世代の我々には不可能だったのではと思う。
語り口ににじみ出る、この「老人的センス」が良かった。

3:
新渡戸の「武士道」を読んでいて、尚且つ史実の引用が上手。しかも、あまり長々と引用しないで自分の論旨とだけ結びつくようにしている。なるほど。

そんな感じで、なんとなく無力感を感じながらの読書でありました。

<つづく>

>「国家の品格」 をめぐる議論の旅
http://blog.so-net.ne.jp/loudminority/2006-06-07

>「国家の品格」 英語は学ばなくて良いのか
http://blog.so-net.ne.jp/loudminority/2006-06-13


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近況を記録しておこう。 [読書・書評]

細々としたこと。

最近個人的なイベント続きで、ブログも「つねっちのイベント事件簿」みたいになっていますが、もちろん日常生活を送っている以上、日常的な変化は常にあります。
というわけで、ちっぽけなことをメインに近況を振り返ってみます。

●読んでる本:
通勤時間が短いせいもあって、いつも本は読んでいるのだけど、読書量が増えない。
さらに、実生活の方が刺激的すぎて、本の内容をあんまり覚えていないのだ。最近(ここ3ヶ月くらい)で読んだ中で印象に残っているのは、「NHKにようこそ!」という引きこもりアクション、「スペイン七千夜一夜」堀越 千秋、浅田次郎「地下鉄に乗って」、村上春樹「『神の子どもたちはみな踊る』 、あとはなんだろう・・・という感じ。現在は、大好きな萩原浩の「コールドゲーム」を読んでいる。
浅田次郎は、魔龍夫妻をはじめとして、周りに愛好家が多いので読んでみようと思った次第。「地下鉄(メトロ)・・・」は、SF好きの僕としてはちょっとキビしいプロットだった。最後の●●が消えちゃうところはなかなか泣かせたけど。この人の作品ではどれが一番面白いんだろうね。「蒼穹の昴」ってやつだろうか。長いな・・・。

映画
ぶっちゃけ、観ていません。

●ライブ、ミュージカルなど:
YUSAのライブに行ったくらい。

グルメ

浅草「前川」でうなぎのコースを食べたのが最も感動的だった。NHKの連ドラ「こころ」で舞台になった鰻屋のモデル。隅田川を眺めながら、鰻をつまみに酒をのむ。極楽。
サクラコの実家がある浅草には何度か行っていて、「前川」以外にも、もんじゃ「六文銭」、名前が分からないのだけど浅草通り沿いのハンバーグ屋が良かった。とくに「六文銭」でもんじゃを食べるのはすっかり気に入ってしまっていて、「腹が減ったら思い浮かぶ店5軒」に入ってきている。

浅草は楽しい―が、パチンコ屋は出ない。恨みを込めてそう言わせてもらう。
※今月、パチンコで大負けした翌日、暴落していた株が急に大幅に値上がりした。プラマイゼロでよかったけど、金って不思議だ。とにかく浅草でパチンコはしないと心に決めた。

そばは白金の「三合庵」で食べたな。蕎麦自体は山せみの方が好きだけど、天ぷらが尋常ではなくうまかったな。

恵比寿では、焼肉は「徳ちゃん」、孤独夕食は「とと兵衛」。
あと、名前を度忘れしたのですが、東口の渋谷側の裏通りに、オーガニック食材を中心としたカレーやプリン、スープやサンドイッチなどのお店ができていて、ここがサクラコのお気に入り。AMRITAじゃなくて、なんかそんな名前だったんだけど。できたばっかりなのでネットにも殆ど情報が載っていない・・・。ここは、和風のスープカレーとエスニックなカレーの2種類が週がわりか日替わりでテイクアウトできる。とても美味しいし、食材にもこだわりがあって安心。生真面目な20代後半~30代前半?の女性が切り盛りしている。

最近行っていなくて寂しいのは代々木上原界隈。「山せみ」「吉野鮨」、東北沢「バル・エンリケ」。
その他夫婦の間で話題に出たのは、池尻大橋「南雲」、新富町「はしご」。

●ゲーム:

スーパーロボット大戦が完了した。これだけはオトナになってもやめられないんだよね。

7月末に買った「第三次スーパーロボット大戦α」である。実に3ヶ月強かかった(苦笑)。
日常生活が忙しかったため、全然進まなくて参ったが、11月初旬の休みなどを使ってようやくクリア。もう3周はクリアしている人がいると思うと複雑な気分だけど、とにかく銀河を救った気分なので爽快だ。
F以降、殆どのスパロボをやっているけれども、今回のはワリとデキが良かったように思う。変なバグとか無かったしね。
このゲームシリーズはいつも思うのだけれども、制作のウェイトの半分くらいが「権利許諾」「設定」「シナリオライティング」にかけられているのではないかと思う。とくに権利許諾に関しては他の追随の及ばないノウハウがあるのだろう。エヴァのシンジくんが精神的に成長していたり、それがガンダムSEEDのキラを励ましたりするなんて、ホントに許諾とれてんの!?と思うほど離れ業だ。それ以外にも、全てのアニメの敵やイベントをとりまとめて一つの筋道が通った話しにしようというだけでも気が遠くなる設定作業が必要だと思う。
第三次について言えば、オープニングムービーも秀逸だった。ワープをして出てきたら、マジンガーの目に無数の宇宙怪獣が映るシーンなんか、ベタとは言え喝采してしまう。ご立派。
次のスパロボは来年の夏かな。

しかしスパロボは夫婦間のコミュニケーションが希薄になり、夫婦関係が悪化するので、これ以上のペースでリリースしないで欲しい(笑)。

●会社:

Dカズが不穏な動き。異動願いを本気で出しているっぽい。処理能力が抜群に高い男なだけに、いなくなると思うと気が重い。埋めるのに二人力は必要になるよ。Dスミ

レがやる気が出ているみたい。それはいい。ただ、A型特有の視野の狭さが気になる。何事も一歩上から俯瞰しないと、的外れになる。暗闇で懐中電灯で仕事している

みたいな。それに比べるとハタケヤマさんはたまに出てきて暗視スコープで全体をざっと見て、さっさと指示して帰ってく、みたいな感じ。ズルイ(笑)。

べーさんが話の流れで今年の合同忘年会の幹事をユーイチくんに任命したが、ユーイチは不安っぽかったので助けてやってくれ、という打診を受ける。
というか、ユーイチは全然送別会なんかにも来ないので、本当に幹事が務まるのか?と余計なお世話だが心配して訊いてみたら、手羽先で有名な「世界の山ちゃん」を抑えるので大丈夫だ、と言っていた。ま、それはそれでよい。内心、忘年会は面白くしたいなあとは思うのだけど、口出しするのはやめよう。出すぎ出すぎ(笑)。

僕はこんな感じだよ、友人諸君。


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「暗いところで待ち合わせ」 乙一 [読書・書評]

暗いところで待ち合わせ」 乙一

乙一の作品は、以前「夏と花火と私の死体」を読んだっきりで、当面この作者の作品は読まないだろうなあと思っていた。しかしちょっと気になっていた「GOTH」が文庫化されて、さらにひねもじら乃太朗さんのブログで本作が好意的に書かれていたのでママヨとばかりに読んでみた。

あらすじはこんな感じ。
盲目の女性ミチルが一人ひっそりと暮らす家に、あるとき一人の男が侵入する。男は、駅のホームから同僚の男を突き落とした罪で追われ、ミチルの家に潜伏することにしたのだった。息を殺して潜む男と、その気配を感じながらも気づかないフリをし続けるミチル。しかしあることがきっかけで男はミチルに気づかれていることを確信してしまう―。

乙一という作家は、ホラー・ミステリ会の若手最右翼という印象が強いが、若いだけあってカタルシス優先、文章・描写が粗いという印象があった(佐藤友哉もそうだ)。
※歳をとってくると読んできた文章の量が多くなるので、ことさらそういった「アラ」が目立って見えてしまうものだ。
だが、この作品に関しては、アラというよりもプロットや巧みな表現技法に引き込まれ、全くストレスを感じないで読了することができた。これは素敵なことだ。とくにプロットは、やや古典的なのかもしれないとは思いつつもたいへんよくできている。プロットだけで6割がた成功が約束されていたと言ってもいいと思う。

この作品はそれだけでは終わらない。形式としてはミステリーなのだが、物語の本質は「盲目の少女と生真面目な逃亡者との心のふれあい」そのものである。
「心のふれあい」なんていうとたいへん月並みに聴こえるが、この二人のコミュニケーションは「ふれあい」という言葉がふさわしい、デリケートで密やかなものだ。この「ふれあい」が全編を通して丁寧に表現されていて、感情移入を促す。「四日間の奇蹟」や「世界の中心で・・・」のように「いい話を書きます!お涙ちょうだいです!というか書いてる僕が号泣です!」的なお仕着せの「いい話」というよりもだいぶデリカシーがある(笑)。

※また、目が不自由な方には本当に申し開きができないのだが、ドラマツルギー的な見地で言わせていただくと、本作やウメズカズオの「おろち」の一篇などをみて分かるとおり、全盲の少女を主人公に据えている作品は本当にぐっと読ませる。視覚によりかからずに生きていくことの大変さと、また少女としての弱さ・儚さがあいまって、物語に緊張感を持たせ、かつ魅力的な主人公になりやすいのだ。

ただし、本作ではミチルの容姿に関する描写は殆ど出てこない。そのおかげでリアリティは損なわれず、俗っぽい雑味も入らない。かといってロマンは阻害されない。
・・・これはなかなかウマイ。これが貴志祐介だったら、「盲目でセクシー美人」ってことになってたに違いない。ぐっと風格がB級テイストになってたところだ(笑)。


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「夏の庭」 湯本香樹実 [読書・書評]

久しぶりにミステリを離れて、文学らしい文学を読んだ。夏ってどうして、こんなに純文学が似合うのだろう。

「夏の庭―The Friends」 湯本 香樹実  新潮文庫

映画化、各国語に翻訳されているそうだ。

人は死ぬとどうなるんだろう?と疑問を抱いた純朴な小学生男子3人組。
町のはずれに一人で暮らす「おじいさん」がもう少しで死ぬらしいというウワサを聞いて、「おじいさんが死ぬ」のを見張り始める。しかし、いつまで経っても死なないおじいさんと3人はいつしか会話を交わすようになり…

エピソードらしいものはあまり多くは無いが、豊かな叙情と細やかな描写で、世界観にゆっくりと浸ることができる。文章も無駄な装飾がなくシンプルに美しい。時折ユーモラスな文章が織り交ぜてあるが、くどさは全くない。デビュー作がこれだけ上手というのもすごい話だと思う。
少年らしい好奇心と行動力がみずみずしくて、疲れた大人たちはきっとうっとりすることができると思う。もちろんラストは静かに泣ける。

図式的には、完全に「ズッコケ3人組」である。というか、ズッコケ3人組にこんな話なかったっけ?と思えるほど。小学生の話としては「のっぽ」「デブ」「メガネ」というのは黄金律なのだろう。

夏に忙しくて休みが取れない人や、都会の夏にうだってしまっている人にオススメ


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「疾走!」重松清 [読書・書評]

「疾走!」重松清

「流星ワゴン」という作品が有名な作者の長編ドラマ映画化されるということである。
上下巻と長く、文章が<重い>ので読破に時間がかかった。読み応えのある作品ではあった。

あらすじはこんな感じ。
瀬戸内海を臨む海辺の町。「浜」と「沖」という地域に分かれて、「沖」には流れ者が多く住み着くようになった。浜に住むシュウジは、ある日沖に建てられた「教会」にふとした頃から通うようになる。
シュウジの兄、シュウイチは町で一番勉強ができたが、県で一番の進学校に入学した後はどんどん成績が落ちていく。精神が不安定になっていった兄は、高校に入ってしばらくしてから引きこもってしまうようになる。
「沖」はその頃、好景気の頃に計画されたレジャーランドの建設のため、地上げ・立ち退きが繰り広げられていたが、そこに連続放火が起きる。当初、地上げをするヤクザの仕業と思われていた連続放火はしかし、シュウジの兄、シュウイチによるものだった。

以降、思いつく限りの不運―いじめ、暴力、変態的セックス、貧困、裏切り、殺人、レイプ・・・が展開される。それはここには書けない。一言で言うと「ヒッドイ話」だ(笑)。

この小説は、つねっちの知識の中では、

「ぼくんち」西原理恵子 の設定・テーマ

「ピショット」(ブラジル映画) のあらすじ
を足して、
トパーズ」村上龍 の描写エッセンス
を足して、
二人称による特徴的な文章表現で切実感を演出してある作品、ということになる。
たぶんこの分析は的を外していないと思う。

文章については一言。
この小説は、全て「おまえは、」という二人称で語られる。「おまえは」という語り口は、最初の数ページでは抵抗があったが、慣れるとたいへん感情移入しやすい、切迫感を演出する「しかけ」になることがわかった。この作品から最も学んだことは、それだ。なぜ二人称なのかは、つまり語り部が誰なのかは最後の方でわかるが、それははっきり言ってどうでもよい。

また、この人はおそらく<叙情系>コピーライター出身だと思うが(違ったらスミマセン)、文章が「紋切り型」というか、歌舞伎の見栄きりのように重々しすぎるので、若干鼻につく。
はなもげらさんが多島斗志之のことを全く逆の意味で褒めていたのを見ても思うが、やっぱりちょっと
「シュウジ―。おまえの物語は、これから始まる。」
的な重々しさは、小説では少しやり過ぎな感がある。もう少し短ければ、また多少重さにメリハリがついていればいいのだろうけれども。

プロット的なところで言うと、ちょっとマンガ的に「不幸」が降りかかりすぎていて、ややリアリティに欠けると感じた。第一、主人公シュウジは不要にセックスしすぎである。大阪の一夜については、そのドラマツルギー的な必然性にもう少し工夫が必要だったのではと思う。「新田」の変態性について複線をはるとか、できたはずだ。

東京に出てからのエリのキャラクターについても同様のことが言える。毅然、孤高たるエリの人間の描写が弱いと感じた。エリに対して、主人公と作者の憧憬が膨らみすぎて、エリの心中がゆらいでしまっている。この形式をとるのならば、エリの孤独はシュウジの出現によって別の形で表現されるべきだし、エリの慟哭は違う形でシャッターに書かれる(!)はずだし、ラストでもどうなったのか分からない。

以上のことから、読み応えのワリには突っ込みたいところの多い作品だったように思う。

代表作「流星ワゴン」を読むのはもう少し先にしようと思っている。


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荻原 浩「神様の一言」 [読書・書評]

荻原 浩 「神様の一言」 を読んだ。これで作者の作品は4冊目を読了したことになる。
あらためて、作者「荻原 浩(おぎわらひろし)」が当代最高レベルの人情作家の一人なのだという認識を強める。

「神様の一言」の主人公・涼平はロックスターになる夢に破れ、一旦は広告代理店に勤めたは良いものの、上司をぶっとばしてクビになってしまう。その彼が販促担当として再就職したのが、「タマちゃんラーメン」でおなじみの珠川食品だった。しかしそこは老害(年取ったオジサン達が会社の実権を握りすぎることで正しい経営判断ができないこと)に蝕まれた古い体質の会社だった。販促会議での失態がもとで、涼平は「お客様相談室」に異動になってしまうが…。

…という、なんの変哲もない、とても平和な設定なのだが、それでもグイグイ読ませるのは筆力のなせる業。この人の文章を「軽妙洒脱」と評する人は多いみたいだけど、シンプルでテンポがよく、しっかり吟味された文章だという印象を受ける。
プロットも実はかなり上手で、決して「技巧派」気取りではないが実力充分。
つまり、とにかく力量が高い作家だと。
もうこの人になら騙されてもいいと。

そんな気持ちにさせる。

荻原浩についてもう少し。

「なかよし小鳩組」という呑気なタイトルに惹かれて読んだのが昨年の初春だった。
※あまりに面白くて同僚のサトーさんに貸し、続いてゆみっちに貸したがゆみっちは本を読む習慣がなかったらしくほったらかしにされた。

その頃(昨年)は、まだどこの書店でも 荻原浩 という作家はそんなに大きく扱われてはいなかった。
今は、(恵比寿の有隣堂でも)いっぱしの人気作家扱いになっている。
新刊を出せば必ずレジ横で平積み、立て札で書店スタッフのコメントが載るカンジ。

「なかよし小鳩組」「オロロ畑でつかまえて」「ハードボイルド・エッグ」と読んだが、どれも電車の中で吹き出してしまうようなユーモアに満ちあふれ、且つ又ホロリと涙するようなやさしさに満ちあふれている。満ちあふれまくりだ。

どの作品の登場人物も基本的なスタンスが優しい、というか悪いことを考えられない人々ばかりである。この人にかかればヤクザの親分ですらなんとなく牧歌的に感じてしまう。
決して性善説を信じているわけではなく、でも人間は君も僕も含めてみんな弱っちくて情けない、だから許してあげようよ、というような優しさが根底にあって、その上でやっぱりできる限り勇気をふりしぼってがんばらねばならないゼというスタンス。それは人間の生き方の基本に立ち戻った「善なる」立ち位置なんじゃないかと思ってしまう。
※例えば「四日間の奇蹟」みたいな偽善的…いや、「善なることに陶酔」している感はまるでなく、はたまた個性偏重主義の影響に蝕まれた「あなたらしく生きていけばいいじゃない」的な<無責任でもない。主人公は、自分なりに、自分の状況の中で、やらなくてはならないことについてはとてもシビアに捉えている。 文章自体はとても軽妙な、ややハードボイルドな語り口なのだけど。
ま、作者のバックボーンが広告業界(つい最近までコピーライターだったそうだ)なので個人的にわかりやすいというのも手伝っているのだろうが、感情移入しやすい。


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「深紅」野沢尚 [読書・書評]

故・野沢尚の「深紅」を読んだ。

小学生の奏子は、修学旅行中に家族が惨殺されたことを知る。その時から感覚を鈍化させ、本音は心の「隠れ家」に隠すようになる。そして大学生になった奏子は、自分の家族を惨殺した犯人に同い年の娘がいることを知る…。

傑作だと思う。
ちょっと文庫巻末の解説が的確に網羅されすぎていて、書ける余地が減ってしまっているのだが、ちょっと書いてみる。

この作品、最初の印象ではたいへん凄絶なシーンから始まるわけだが、実はこの凄まじい事件の描写は「撒き餌」もしくはこれからグライダーで滑空する前に高いところから<助走>するみたいなもの。主題はその後の殆どを費やしてある、「被害者心理」の描写に尽きる。
だから、小説に常にスペクタクル、カタルシスや手っ取り早い感動を求めている読者には物足りない、またはよく理解できないかもしれない。

よく、事件があると「心的外傷」「心の傷」といった言葉が報道でも使われるが、多くの人はその「心の傷」というのがどんなものなのか、実はちゃんと想像できていない。実際に事故や事件でPTSDになる、という話を聞いたとしても、単に事故や事件を連想してパニック障害を起こすとか、恐怖症になるとか、そういうこと?としか考えられない。これはきっと多くの人に共通したことではないかと思う。

「深紅」で作者がやりたかったことは、「『心の傷』とは何か?」を考える作業だったのだろうと思う。

「心が傷を負う」ということで、人はどのようになっていくか。そしてそれはどのような形で癒されていくべきか。それを作家の目(この人は元来放送作家だが、とても洞察力のある人だ)から、考えに考え抜いて追求している。
そのテーマを効果的に描くための年齢の設定や登場人物の生活レベルの設定も絶妙だ。設定を少しでも変更するといちいち全然違う話を書き直さねばならなくなる程緻密だ。設定が緻密であることは、心理を解いていくこのストーリーの中では命綱だと思う。「極限の笑い」の記述も生きているし、奏子の持っている残酷さも、ミホが持っている劣等感も、そのまた逆の心も、二人の登場人物について全方位的に考えようという作者の意志を感じる。

ラストは、人によっては拍子抜けに感じるかもしれない。かの凄惨な事件で幕を開ける「心の闇」は、このような形で癒されていくものなのだろうか。これでいいのだろうか、と。

これについては賛否両論あるだろう。
解説では、このエンディングを「筆者のやさしさ」だとしている。それも当たっていると思う。あえて付け加えるならば、「写真部の拓己」そして劇中ではあまり描かれないが「叔父・叔母の夫婦」という、奏子の周りにいて、奏子の成人までの多くの時間を共に過ごしてきた人々に対して、奏子はたいへんな感謝と満足を感じているということ。これがラストの「やさしさ」につながっていると思う。
ここに静かな感動があったのだ。

ストーリーの初っ端、事件はこれ以上のものはないというほど凄惨であり、奏子は、小学6年で全てを喪失するほどの強烈な「悪意」「憎悪」を体験する。そこをスタートラインにして、善意ある者の幇助、穏やかな時間、傷のなめ合い、心の触れあいを通じて、人間は優しくなれるのかどうか。そこに作者は希望を抱いているのだ。
※その希望は「四日間の奇蹟」のような浅薄な性善説に根ざした甘っちょろい希望ではない(笑)。

本論とはずれるし、これはこの小説に対して批判的な人々も認めるであろうことであるが、この野沢尚という作家の状況描写の筆力は並大抵のものではない。ショッキングな冒頭の描写、ちょうど奏子が朝のテレビを盗み見て●●するあたりまでのくだりは、事件の描写として多くのミステリやホラーと比べて抜きん出ている。
・・・つくづく、惜しい人を亡くしたものだと思う。

※ちょうど「評論について」細かく考える作業をしている最中ということもあって、しっかり読ませてもらった。 読了後、Googleにて検索をかけてみたところ、賛否両論甚だしかったが、かなり的外れな論評が多くて考えさせられた。この作品に対して辛らつな意見の多くは、後半の「カタルシスのなさ」を問題にしている。これが「心の傷が癒される」物語なのだから、別にカタルシスはなくてもいいのではと思うのだが。「サスペンスとしてものたりない」なんて言葉もあったが、たぶんこれはサスペンスではない。勝手に決めるな(笑)と。 別の意見で、「奏子のことが嫌いだから」という意見があったが、それはもう根本的に小説読みとしてのスタンスが崩れているので語るに足りない。読み手のエゴが強すぎて、心理を「読もう」というところに至っていない(苦)。「深紅」は一つの側面として、それに対する論評を読むことで実態がはっきりしてくる小説だった。


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最近読んだミステリ:貴志祐介、野沢尚ほか [読書・書評]

いつ片時も文庫本を手放さない。
以前、漫画の評論をやってたときは、常に漫画を買ってカバンに2冊はいれてたものだけど、最近は文庫本が<切れる>と困る。とくにミステリ。

さて、そんなわけでここ数週間で読んだ本。ミステリばかりピックアップ。

「葬列」小川勝己

映画「あずみ」の次くらいに沢山人が死ぬ、犯罪アクションドタバタ小説兼ちょっとしたミステリ。
なかなか楽しめたがとくに語るべきこともない。ただ、ラストにはかなり驚いた。あらら、そういう話だったの~!!
みんなそうだと思うけど「OUT」を思い出した。

「破線のマリス」野沢 尚
細部にわたりリアリティ(リアリティというのは僕の場合「必然の説得力」)があって非常によかった。
カタルシスはあんまりないけれども、胸にせまるものがあった。
この人は本職が放送作家なのでそんなに作品数がないんですが、全部読んでみようかと思う。

クリムゾンの迷宮」「黒い家」「天使の囀り」貴志祐介

がクリムゾン…についてblogで書いていたので、立て続けに3冊読んでみた。同じ作者の本を3冊立て続けに読んだのは筒井康隆か舞城王太郎以来。
貴志は「青の炎(あやや・二ノ宮くんで映画化された)」を先に読んでいたので、つい青春ミステリ小説家かと思っていた。本来は全然違って、ホラー作家なのだということを初めて知った。
どの作品も非常に面白くて、手に汗握る、ページを繰る手が止まらないよ!系のサスペンスがあってとてもよかった。いろいろなサイトでいろいろな書評が書かれているけど、俺は「黒い家」がリアリティがあってよかった。舞台設定、犯人像、細やかなサスペンス。
天使の…は物語的には一番凝っていて、かつ一番ショッキングなものだけど、やや飛躍が大きくて人によっては白ける。ほとんどスプラッターだしね。映像化したら面白いと思うけど。
「クリムゾンの迷宮」は、B級くさいのだけども、冒険の要素が強くて、男性なら一番素直に楽しめるのではないかと思う。ただ、ヤンのブログを読んでいたので、ラストはすでに予想できていた(笑)。
どれも、ラストまで凝っていて、エンターテインメント性抜群。「ホラーが理屈ぬきに一番オモロイ」という(映画に関する)中学生時代の持論を思い出した。
で、上記の3作はどれもきちんと濡れ場があるあたり、ちょっと笑える。「クリムゾン」はストーリーと関係があるからいいけど。ストレートにカタルシスを求めている娯楽小説で、まあ決して「文学」ではないやね。とにかく楽しませてもらいました。

思えば、3~4作品以上同じ作家の本を読んでる、つまり好きな作家って誰だろうと振り返ると:
筒井康隆、村上龍、桐野夏生、村上春樹、宮部みゆき、舞城王太郎、貴志祐介、星新一、田口ランディ、石田衣良、貫井徳郎、あと誰だっけ?
中島らもは殆ど「明るい悩み相談」なんだけど入れてもいいんだろうか。
というくらい。
ミステリ作家って、個人の力量差がかなりあって、好き嫌いというより明白に面白さの「量」に差がある気がする。

東野圭吾、京極夏彦、綾辻 行人、森 博嗣 は読まず嫌い。西村京太郎、山村美紗みたいな予定調和系はもってのほか。乙一、佐藤友哉は話に含蓄がない。「火の粉」で注目の雫井脩介は面白いと思う。


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