So-net無料ブログ作成
ライフワーク―評論についての考察 ブログトップ

「月刊チャージャー」を褒める [ライフワーク―評論についての考察]

今日は珍しく、メディアを褒めます。

mixiでもよくバナー出してるので見た人も多いかもしれないけど、「月刊チャージャー」っていうネットマガジンがあるのね。

グラビアアイドルとかを前面に出してるし、SPA!R25系のよくあるサラリーマン向けマガジンなんだけど、実は感心する連載記事がある(R25にもあるけどね)。なかなか骨のある編集手腕。

※一応言っておきますが、私は「月刊チャージャー」とは何の関係性もありません。

それが、「言いたいことを言ってくれ!  業界別覆面座談会」

演出は非常に・・・20代~30代前半くらいをモロにTGTにしたB級テイストなんだけど、それはどうでもいい。
意外なのは記事の全てが非常に骨太で、メディアにありがちな無駄な体制批判や無意味な嘆きよりも、業界での信念とか実情をきちんと見ようとしているように見えること。

例えば「第七回 消防士」
http://promotion.yahoo.co.jp/charger/200706/contents01/theme01.php

プロというものに対するリアリティのある話がチラホラ。映画「9.11」で命を散らした消防士たちへの共感のくだりなんかは、感動的ですらある。
命をかけた仕事に対して自信があって、日頃から体を鍛えている彼らのプライドと日常のバランス。

もっとビックリしたのが「第六回 ナメまくり就活事情」
http://promotion.yahoo.co.jp/charger/backnumber/200705/contents01/theme01.php

「一流大学女子学生3人が集まって、就活や企業について言いたい放題。」と書いてあるので、SPA!みたいな「世も末」系の記事かと思いきや
逆に「うわあ賢い娘達だな~」と感心する羽目になる(笑

「同じ部署の中でのオフィスラブとかはあり得ないな。仕事が進めづらくてしょーがないでしょ」
「不倫なんてしてたら、若い時間がもったいないもんね。私は、付き合う男性は住民票と納税証明見て決めることにしよ」


あたりは浅はかなギャルたちに是非教えてあげてほしいし(笑)、極めつけは

「私も(内定は)3社だな。でもね、就活って世の中の企業を見るいいチャンスだから、活動はまだしばらく続けようと思ってるの。流通とか食品メーカーとか、絶対に入る気はないから、企業の様子を知るには就活が最大のチャンスだもんね。」
この前向きさ!!人生のポイントをわかって、しっかり取材している。
自分の利益をしっかり守るために、誰にも迷惑かけずにしっかり賢く生きていこうという逞しさがあるじゃない。
偉いなあ。

「第4回 ゼネコンの人間が語るマンションの真実」
http://promotion.yahoo.co.jp/charger/backnumber/200703/contents01/theme01.php

これもなかなか骨がある。いよいよ「ゼネコンなんてひどいもんよ」「欠陥住宅だらけっすよ」みたいな記事かと思いきや、
「住むならウチの会社が建てたマンションがいい」
といいだす社員
。これって素晴らしいことだよね。内部に対して信頼感がある。
やらせ(?)だったダンボール肉まんのときに
「自分では食べない」
という話がショッキングだったのと逆で、モラルがしっかりしてる。これが日本企業の美学だよなあとうっとりしてしまう。


「第8回 サラリーマン空手家が語る、熱い生き様」
http://promotion.yahoo.co.jp/charger/200707/contents01/theme01.php

これなんかはもう現代の若者・・・いや、40歳くらいまでの核家族の都会人は皆読んだ方がいいってくらい(笑
題材が題材なので、かなりストロングスタイルだけど、体験的真実に根ざした、名言の続出。
奮い立たせるものがある。

俺らの道場に通ってくる子らには、後悔させんようにせんとな。道場やってて大事なんは、子どもや親との信頼関係やし。」
「空手やっとったら、同じ稽古しても強いヤツと弱いヤツがおることは身体で実感する。気の抜けた平等なんて世の中にはないっちゅうことをわからなあかん。」
「親から「子どもが泣いて道場行きたない言うてるんです」って連絡があっても、俺はどないしてでも道場まで連れてきてくれって言う。道場来たらなんとかするから」
「働きながら空手やって、金持ちでも何でもないけど、死ぬ時後悔せんですむ人生送ってる自信はあるし。」

すごい!立派!

で・・・これらの記事に共通しているのは、まずポジティブさ。人生を前向きに生きる姿勢があるということ。

業界人インタビューみたいなものを作るとき、概して対象の人間は前向きor後ろ向き両極端ではないから、編集方針によってトーンが変わってくる。聞き手によっても変わるし。
これらの記事はとてもポジティブな部分をうまくエンハンスしていて、しかもセリフ回しが上手なので印象に残る。
ライターor編集は相当な腕利きだと思うよ。

さらに、ゼネコンや消防士なんかがそうだけど、仕事人としての高い意識が垣間見える
これは、編集者自信が仕事に高いプロ意識を持っていることの顕れだと推測する。
(浅い人生観のライターは他人を取材しても浅い部分までしか掘り下げられないものだけど、意識の高い人は、他人の意識の高さに敏感だからね。)

ここに出てきている人達が実際に立派なのは疑うべくもないというか疑う必要がないけど、
ネガティブなことの方が受け入れられやすいネットメディアにおいて、そういう強くて前向きな意識をエンハンス(抽出するというか表に出す)した編集サイドも立派だと賞賛したい。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(4) 
共通テーマ:日記・雑感

「国家の品格」 をめぐる議論の旅 [ライフワーク―評論についての考察]

さてさて、「国家の品格」について楽しく書こう、と思ったのだけど、
「待てよ、ネット上ではどのように論説されているのかしらん?」
と検索してみたら出るわ出るわ。大騒ぎですな。多くは批判的な論旨のようです。
確かに、この本の内容はたいへんラディカル・・・というか、戦後の教育を否定するのかよというほど極端なので、
批判が集中するのもうなずけます。

そこでちょっと脱線してみようと思います。

この本の主題ってのは、「論理は万能ではないので、情緒を大切に」ととれなくもない。
例えば学者であったりとか、知識人と呼ばれる勤勉な論客達にとって、
「論理的であれかし」
というのは命題中の命題であって、論理には限界があるので江戸時代の情緒で生きていきなさいなんて言われたら、
それはもう怒髪天を衝くイキオイで怒ってしまうこともあるでしょう。

さまざまな論争があって、どれも面白いのですが、ここは圧倒的に充実してます↓↓
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2b365b2a38ca7996074020857aca73c4

論争は上記ですると良いでしょう・・・って殆どの論旨が出尽くしているのであまりやることはないでしょうが。

知的な遊びとしては、上記の論争はたいへん面白かった。
実にさまざまな論点が出てくるものだと感心しました。

ただ、不思議なのだけれども、どうして論客というのは例えば「史実の引用の間違い」だとかを指摘することで<論旨自体を否定できる>と考えているのだろうか。
これはあまりにも数学的な考え方で、それこそ「どこかで0が含まれていたら全て0になる」だよね。
書物というのは本質的にそういうものではないよね。

<上記サイトで大論争を繰り広げている論客達は、たとえば「聖書」を読んだら、どう批評するのだろう?>

国家の品格で言いたいこと、というのはもちろん全ての読者が感じたとおり、たいして多くはないのです。
一つ前のエントリで触れたようなテーマしかない。
それを口述ベースで一冊の本に仕立てているのだから、繰り返しは多いし、揚げ足を取ろうと思えばいくらでも取れる。
引用や、論旨を補強するためにちりばめるエピソードなんてのは、それぞれで一冊の本が書けるくらいのテーマなんだから、
ダイジェストの仕方が正確で無いのも当然でしょう。

単なる「おじいさんの教訓深い話」として考えれば、素直に頷ける内容だらけだと思うのだけれども、
学者たちは、例えば

「あまりにもでたらめなことが書いてあるので、冗談かと思った」

というような批評をシニカルにする。
じゃあどんだけでたらめなのだろうと読んで行くと、気づくことがある。
指摘されている「でたらめ」ってのは史実の引用部分や、学問的な概念を一般のためにダイジェストしている部分だったりして、本の主題のいわばお飾り部分に過ぎない。
そんなところは言いたいことを補足するためのスパイスなんで、正しかろうがニュアンスが違っていようが、どうでも良い部分なんだよね。

例として、適当なところをちょこっとだけ引用させていただくと(被・引用者の学者さんは有名&立派な人。)

>数学についての議論はおもしろいが、専門外の問題になると馬脚をあらわす。

→専門か専門じゃないかは読者には関係ないし、「国家の品格」は数学の本でもなければ論文でもない。知識量の量や確度の話は、本の主旨からずれている。専門でないと知識不足であるから本質的な問題が掌握できないのだという論調はいかにも学者賛美的で説得力にかける。
 レトリックで遊ばせていただくと、上記のような批評から察するに、書評は専門外だな-笑

>経済学を批判している部分などは、ハイエクやフリードマンを「新古典派の元祖」とするお粗末さだ

→別に良いし、それがお粗末かそうでないか、という次元での話はされていない。読者もそんなことは気にしていないし憶えてもいない。
 というか経済学についてこの本から学ぼうとは思う必要がない。それこそ、ハイエクやフリードマンについて知っている人は、その引用が文旨の都合で引用されていることが分かるはず。読解という意味ではね。

感想、もしくは批判としてなら、

>筆が荒れてるね。
>言わんとすることは分らないでもない。
>しかしもう少し緻密な論旨の運びは出来んものかね。
>数学者なんだからさあw。

が一番バランスが取れていると思う。言いたいことがなんなのかってのが一番。それが分かっていて、その割りに雑だな、というコメントなら外れていない。

でね、ここで考えて見て欲しいのですが、

なんで、この本を「批判」しなくてはならないのか。

逆に、なんでこの本を「擁護」しようと思うのか。

そもそも、ディベートコンテストでもない限り、何か議論があったら自然にどちらかのサイドにつくじゃないですか。

で、悲しいかな、ニンゲンと言うのは多くの場合、
「どちらが正しいか」
ではなくて
「どちらが正しければ自分が正しいことになるのか」
でつくサイドを<無意識に>決めていたりするのね。
そんで、その前提に立って論陣を張る。

例えば、学者さんにとって、論理よりも武士道や騎士道が大切である、と言われれば、それはもう人生を否定されたのと同義になりうるので、
本能的に敵対する。
ではその学者さんの中にあって、あまり研究成果は華々しくないけれども、剣道5段で学者仲間からはサムライのニックネームで親しまれている人がいたら、
「そうなんだよ、俺は武士道から一番大切なものを学んだ。君達も小理屈ばかりこねていないで剣道をやりなさい」
と言いたくなるんだよ。

それはもう絶対にそう。もう利己的遺伝子のレベルでそう(笑)
だから、競技として行なうディベートはクールに面白いけれど、素の議論はヒートアップするのだね。

いやはや、インターネットが普及したことで、議論に参戦する人の垣根が取り払われて、一層面白くなった。


nice!(0)  コメント(5)  トラックバック(5) 
共通テーマ:日記・雑感

4:論評の意味。 [ライフワーク―評論についての考察]

作品というものは、実際に作られ始めるよりももっとずっと前からその出自・アイデンティティが形づくられていく。

例えば一つの反戦映画が作られるまでには、まず史実としての戦争があり、その功罪がある。製作者(プロデューサーや監督や脚本家)の反戦に関する意思があり、それを表現するための技術と予算がある。もっと遡ると、製作者の意思がどういった民族的背景や宗教に基づいているかも関係してくる。作品をとりまとめて評価するためには、本当に突き詰めれば膨大な作業が必要になってくるのだ。

しかし、そのように無限に風呂敷を広げてしまうならば、究極的には<神の判断>になってしまう。生は正しいか、正しいならば人を殺すのは正義か、などなど、作品評論からかけはなれた哲学的な問題に終始してしまう。
そのため、作品を論ずるときには、<その作品の命題>を設定した者―すなわち製作者自身の出自以前の良し悪しを論じることはなるべく避けねばならない。それは製作者の責任ではないからだ。
※例えばあるクラシック音楽家に関する音楽映画の論評をする場合、クラシック音楽そのものを論じてはいけない。また題材となっている音楽家自体の曲や人格や功績を論じてはいけない。

「製作者の責任」という言葉は、評論とは非常に根深い関係にある。

評論というものは、
1:より良い作品ができていく風潮の醸成
2:よい良い作品が評価され、露出される現象の補助
を目的としている。

それ以外の論評は、基本的には意味が無い、もしくは評論ではない。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:アート

3:「そんなにイヤなら見なきゃイイじゃん」 [ライフワーク―評論についての考察]

「そこにあるものが自分に役立つから良い、そうでないなら悪い」というような考え方が、極めて<即物的>で気に食わないというのがあったのだろう。

この「自分に役立つなら良い」という考え方は、実は現代の日本人には広く流布した考え方だ。
「あなたとは関係ないんだからいいじゃない」というようなセリフがそれを顕している。

例えばワイドショーの報道姿勢のあり方について異議を唱えていると、必ず
「そんなにイヤなら見なきゃいいじゃん」
と言う人がいる。

勘違いしないで欲しいのは、僕が言っているのはワイドショーによって<僕が不利益をこうむった>という話ではない、ということだ。僕が見るか見ないかはこの場合まったくどうでもいい。
「電波メディアで仮にも報道の名をかたって情報を流すならば、モラルと論理性と裏づけをもってやるべきである」という論説と、「僕が腹が立つから見ない」というのは関係が無い。

当事者はあくまで「ワイドショーの制作者」であって、見ている僕ではない。
そのスタンスを誤解して、僕に対する有益なアドバイスとして「見なきゃいいじゃん」というのは的が外れている。

「行かなきゃいいじゃん」「食わなきゃいいじゃん」「見なけりゃいいじゃん」というような言葉、これらが「もう面倒だからその話やめない?」という意思表示であるのならばいい。だけど、むしろ「前向きな解決法」だと思っている人も多い。

この根底を支えているのが、「自分にとって利益があるかそうでないか」で全てを断じていくというアイディアなわけである。

多くの人がそのアイディアに即して物事を考えているため、そうでないケースが理解できないわけである。それとこれとを一緒にしていはいけない。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

2:「鉄アレイ」と漬物石に関するマチガイ [ライフワーク―評論についての考察]

話は飛ぶ。くだらない話で申し訳ないが。

歯がゆい夜。親友たち3人と酒を飲みながら討論をしていた。お題は自分からふっかけた。

「鉄アレイとしてもっとも最適化された<傑作な鉄アレイ>を、漬物石としておばちゃんが使用していたら、その鉄アレイは価値があると言えるか」
転じて、
「モノの価値とは誰がどう決めるのか」。

これに対して、親友達の見解は(当然といえば当然なのだが)こうだった。

「モノの価値は使う人間の満足によって決定づけられる。然るに、おばちゃんが漬物石として使用しているならば、それは価値がある」

この時に自分が抱いていた観念を彼らに説明できなかったのは本当に悔しい。
だが、僕は「漬物石として使用される鉄アレイは限りなく無価値である」と結論づけたかったのだ。

しかし、それを説明するためのケースや定義づけに失敗していた。鉄アレイと漬物石は、僕の論議したいテーマの中では全く別物であることに気づいていなかったからだ(笑)。

友人達と僕の立場の違いは、観念的にはこのように違う。

友人達:
そこに鉄アレイがある。自分は漬物石が欲しい。鉄アレイは漬物石としてワークする。ゆえに有益である。

僕: 鉄アレイを作ろうという動機がある。この動機に基づいて、人間工学や統計的な手の大きさを検討し、鋳型から鉄アレイを制作する。この全ての作用は鉄アレイとして使用されるための作用であり、漬物石として使われるのであれば、この鉄アレイは存在しなかった。ゆえに、鉄アレイとして使用されなかったことで、鉄アレイは存在価値を失った。

これは「価値」という言葉の立場の違いとも言える。いや違う、僕の方の言葉が足りないのだ。
僕はこのとき、「価値」は「有益」であることを指し示すのではなく、「その存在をあらわす」ものとして捉えているのだ。すなわち、「価値」=「アイデンティティ」という定義。

そのため、そもそもただの川原の石っころである「漬物石」と、人工物である「鉄アレイ」とは一緒に論じることができない。「鉄アレイ」には出自があり、アイデンティティが存在する。しかし、自然物である石には、人間が認識できるような「アイデンティティ」が無い。それは最初からそこに(無為に)存在するだけのものだからだ。

後に述べるように、評論というものは人が作ったもの、「創作」と呼ばれるものに対してのみ行われる。

※定義するのが手間なのだが、この文章では何も記載がなければ<漫画や映画や小説>といったフィクション作品を想定していただければ外れない。音楽と絵画は一歩深化してしまうのでまだ語れない。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

1:評論について考えている。 [ライフワーク―評論についての考察]

長年ずっと考えてきたことがある。こんなに長いこと考えてもスパッと答えがでなかった。いまだにスパッとキレイな答えは出ていないが、だいぶ近づいてきているように思うので、ここらへんでつれづれ書いてみようと思う。
説明を省いたままいきなり結論を書いたりするので読みづらくなるかもしれないが…。

モノを評する、ということを始めたのは一体いつ頃だっただろうか。

漫画の評論を始めたのはちょうどWEBの制作を始めた頃だから、きっと1998年から1999年くらいだろう。腐るほどある漫画の中で、「これはすばらしい!」と痛烈に感じたものを紹介しようと、ホームページを作ってみたのだ。

この「電脳的漫画論」は、自分のホームページ制作技術の向上とともにコンテンツをドンドン増やし、「元祖!漫画診断」や「ドラえもん-罪と罰-」を公開したせいで人気が出た。掲示板も盛り上がっていったし、「2ちゃんねる」住人にすらなかなかの好評価をいただいた。「日経WOMAN」や「ぴあ」などで紹介され、Yahoo!にはひいきされ、個人が主催している漫画評論サイトとしては(「漫画鳳凰殿」や「OHP」などにはかなわなかったが)5本指には入る影響力を持っていたのではないかと思う。

このサイトを運営していた4~5年間の間に、数千冊の漫画を読み、数十万字の論評文を書き、百人くらいと掲示板で対話し、10人程度のクレーマーを退治した(笑)。中には自分と論争をするつもりでやってきて、結局ものすごく親しくなった人もいた。人生の中でもたいへん良い経験をしたと思う。これがネットの面白いところだ。

このサイトで漫画の評論をしていく間に、多くの漫画評論サイトができては廃れていった。中でも印象が強いのは、98年頃に「100人書評」という、大勢で書評をしていくというシステムで人気を博した「MMJ」というサイトが荒らしにあい、最終的にはサイトとしては消えていったことだろうか。
このMMJというサイトは「民主的に作品を評していこう」というものだった。
このコンセプトからもわかる通り、管理していた方は柔和な好人物だった。

が、このサイトは評論サイトとして大きな欠陥があった。

それは、複数の人間が一つの作品に対して全く違う評価をするため、評価・評点を参考にすることができないのだ。今でこそYahoo!やライブドアなどのレビューシステムは数が多いことで一つの指標にはなるかもしれないが、それも数があっての話。結局、既に自分が読んだ作品に関して思いのたけをぶつけるコミュニティサイトになってしまった。
サイトは権威を持つことができないと、荒らしの餌食になる。

当時、MMJさんには悪いのだが、僕はMMJさんの消滅は当然のことだと思っていた。みんながそれぞれ評価するというのであれば、サイトとしてまとめる必然性がなかったからだ。そしてそれよりも、多くの人々の評論文は殆ど的を射ていなかった。

例えば、「スラムダンク」という傑作バスケ漫画があるのだが、これに対して5点中1点という辛口の点数をつけているヤツがいた。
そいつのコメントはこうだった。

「俺がバスケ嫌いだから。」

このとき確信が事実にかわった。多くの人間の意見というものは、評論ではもちろんなく、評価でも感想ですらない。「民主的書評」の行き着くところはこうなってしまう。

僕は「十人十色」という言葉の空虚さを意識するようになる。ランキングや売れ行きと作品のデキが全く関係がないことを確信したのもこのあたり。
「価値観は人それぞれである」という当たり前の言葉を、作品の評価に持ち込むことを嫌悪するようになった。

そこからは比較的迷うことなく、なかなか一貫した論調で作品の評価を続けることができたと思う。「評価に対して納得がいかない」という声もたまにはあったが、丁寧に討論し、冷静に論破していった。それは比較的簡単な作業だった。殆どの「納得がいかない!」は感情論が主題になっているものが多く、とどのつまりは「僕が子どもの頃読んで感銘を受けた作品だからもっと好評価すべきだ」とか、「このキャラクターが大好きでコスプレまでしたのに落選とは何事だ」というような、個人的な思い入れに終始するものが多かったからだ。

しかし、「一体何を基準に採点しているのか」という問いに対しての返答はいつも歯切れが悪く、時に何千字も理由を書いて送りつけ、相手が面倒になってフェードアウト…というようなこともままあった。
そう、これは自分でも整理できていなかったし、世の中の殆どの「評論」作業をしている人間にとっての命題だろう。評点をはじき出す「公式」が無いのだ。

とはいっても、自分が高い評点を出すものには感覚的一貫性があった。だからそうそうは迷わなかったと思う。ややいい加減ではあったもしれないが…。

<つづく>


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート
ライフワーク―評論についての考察 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。